壬申の乱に見る大海人皇子と大友皇子

はじめに

 私がまず壬申の乱というものに興味を持ったのは小学生の頃である。それまで
勉強嫌いで通してきた私にとって、歴史とは初めて興味を持った勉学であり、そ
して壬申の乱、特に大海人という人物は自ら学ぶ意欲を与えてくれたものでもあ
った。
 壬申の乱は天武天皇元年(六七二)に起こった日本古代最大の内乱である。こ
の争乱は天智天皇の弟・大海人皇子(天武天皇)と天智天皇の息子・大友皇子と
の間に起こった戦い、すなわち叔父と甥による骨肉の争いである。
 天智天皇死後の皇位継承をめぐる争いが乱の直接的原因であると考えられるが、
何故皇位継承に問題が生じたのか、両人の性格・特徴から考えたいと思う。
 また『日本書紀』壬申の乱時に出てくる美濃国「湯沐邑」と大海人皇子との関
係について、調べてみたいと思う。



第一章 壬申の乱と皇位継承問題

第一節 大海人皇子と大友皇子
 
 大海人皇子は『日本書紀』天武即位前紀に
  天命開別天皇元年、立爲二東宮一。
と書かれているように、天智が即位した天智天皇七年に立太子したと見られる。
しかし、天智紀には大海人皇子立太子の記述はない。
 また、大海人皇子は生年が定かではないが、『日本書紀』に東宮大皇弟(八年十
月条)、東宮太皇弟(十年正月条)と見えることから、天智天皇より数歳下とみら
れる(注1)。生まれながら資質に恵まれていたようだが、大化改新後、中大兄皇
子(のちの天智天皇)を皇太子時代から助け、政治上なくてはならない存在であ
ったと思われるが、表立って政務を担当することは少なかった。しかし、中大兄
の娘である鵜野讃良皇女(のちの持統天皇)をはじめ大田皇女・大江皇女・新田
部皇女の四人の皇女を娶っている。この当時王族間の近親婚は珍しくもないが、
四人という数はやや異例であり、また大海人皇子と早くに娶った額田王との間に
生まれた十市皇女は中大兄の長子・大友皇子に嫁ぎ葛野王を生んでおり、二人の
間に異常とも言えるほどの関係があったと思われる。婚姻を通じて中大兄・大海
人の関係は密接であり、また天智の大海人に対しての配慮が並々ならぬものであ
ったことがうかがえる。当時、婚姻とは同盟のしるしといっても良い。大海人が
何の利益も持たない、才を持たない人物であったら天智は四人もの娘を嫁がせる
こともなかったと思われる。このことから、大海人皇子は天智に、そして世情に
とってもなくてはならない存在だったと考えられ、また天智三年に

  三年春二月己卯朔丁亥、天皇命大皇弟、宣増換冠位階名及氏上・民部・家部
  等事。其冠有二二十六階。大織・小織・大縫・小縫・大紫・小紫・大錦上・
  大錦中・大錦下・小錦上・小錦中・小錦下・大山上・大山中・大山下・小山
  上・小山中・小山下・大乙上・大乙中・大乙下・小乙上・小乙中・小乙下・
  大建・小建、是為二十六階焉。

と天皇の命で「甲子の詔」をしたという記述があるが、これは天智の後継者とし
て自他ともに認める存在であったからだと考えられる。このようなことから、大
海人皇子の立太弟は自然なものであり、天智七年に中大兄が正式に即位、また葛
野王の誕生も同年とされている(注2)から、この頃までは二人の関係は表面的
には順調であったと考えられる。
 大友皇子は大化四年(六四八)、当時まだ皇太子で中大兄皇子と呼ばれていた天
智天皇と伊賀采女宅子娘との間に生まれた天智天皇の長子に当たる人物である
(注3)。大友の母・宅子娘は伊賀国(現在の三重県西北部)の旧国造家から貢上
された采女で、身分の低い後宮の女官であった。当時天皇として擁立される者の
生母はほとんどが皇族の女性(欽明・舒明・皇極(斉明)・孝徳)、または中央有
力豪族の出身者(用明・崇峻・推古)であった。地方豪族出身の女性を母とする皇
子が王位についた例はごくわずかで、尾張連目子媛を母に持つ安閑・宣化の他に
いない。中でも、大友の母・伊賀采女宅子娘は『日本書紀』に記載されている天
智天皇の妃九人の中で九番目に書かれている人物である(注4)。亀田隆之氏は「当
時の朝廷において出自の卑いことは、単に皇位継承者となることができないとい
うことだけでなく、支配下の諸豪族をよく統制することができないという点で致
命的だった」と述べており、大友は本来皇位を継承することが難しい立場にあっ
たといえる(注5)。乱時、対する大海人皇子が天智天皇と同母弟で、父が欽明天
皇、母がその皇后・宝皇女(のちの皇極=斉明天皇)であるから、出自問題から
考えると伊賀采女宅子娘という身分の低い母を持つ大友皇子の立場は大海人皇子
とは比較にならないものであった。このことは、天武の子・高市皇子(注六)に
も言え、高市は壬申の乱で総大将を務め乱の功績者として上げられるが、天武の
長子であり鵜野讃良皇女を母に持つ草壁皇子が皇位継承一位であり、また草壁が
早くにして亡くなった後も高市は皇位を継ぐことは出来ず、草壁の母で天智を父
に持つ鵜野讃良皇女が皇位を継ぎ持統天皇となった。
 天智天皇には大友皇子以外にも三名の男子がいたが、正妻・倭媛皇女との間に
は皇子はなく、蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘との間には大友より三歳年少の
建皇子がいたが、斉明四年(六五八)五月に八歳にして薨じている。また川嶋皇
子の母は忍海造小龍で大友より九歳年下であり、施基皇子の母は越道伊羅都女で
さらに幼少であった。天智天皇には皇族を母に持つ皇子が存在せず、建皇子の死
後は中央豪族である蘇我氏を母に持つ皇子もいなかった。天智が即位した天智天
皇元年(六六八)に二十歳に成人に達していたのは大友皇子ただ一人だった。
『懐風藻』の大友皇子伝には

  淡海朝大友皇子。二首。
  皇太子者。淡海帝之長子也。魁岸奇偉。風範弘深。眼中精耀。顧盻緯Y。見
  而異曰。比皇子。風骨不似世間人。實非比國之分。・・・・。皇子博學多通。
  有文武材幹。始親萬機。群下畏服。莫レ不肅然。(中略)太子天性明悟。雅愛
  博古。下筆成章。出言爲論。時議者。歎洪學。未幾文藻日新。

と、大友皇子が風貌も良く、学問・武芸に秀でて、才能のある人物であったと記され
ている。また『懐風藻』に
  
嘗夜夢。天中洞啓。朱衣老翁。捧日而至。フ授皇子。忽有人。従腋底出來。
便奪將去。覺而驚異。具語藤原内大臣。

と、大友が与えられた皇位を何者かにすぐ奪われてしまうことを暗示した夢を見、
中臣連鎌足(のちの藤原鎌足)に相談したとの記述があり、大友自身が皇位継承
を予期していたことがわかる。しかし、『懐風藻』は天智系の人々に同情的な書き
方をしているといえるので(注7)多少違いは生じるだろう。また、『懐風藻』が
書かれたのは壬申の乱後であり、大友の夢の話が事実であったかどうかも定かで
はない。それでも、大友皇子は天智天皇の長子として恥ずかしくない人物であり、
皇位を継ぐ器量を持った人物であったことがうかがえる。こうした若者に期待す
るのは親の情である。しかし、器量の面から考慮する場合、大海人皇子と比べる
とどうであっただろうか。大海人皇子に正面から対決して勝ち目のある人材であ
ると、周囲は認めていたであろうか。天智は同母弟・大海人の優れた能力を認め
るとともに、大化改新以来自分を補佐してくれた大海人の功績を軽視してはいな
かったであろう。目に見えて成長する大友皇子を、子供に対する愛情という自己
の個人的な意思で擁立しようとすれば、混乱が起きることは明白である。それが
分からない天智ではなかったであろう。そこには、皇位継承の世代内継承から父
子直系継承への転換に深く関わりがあったと考えられるが、それはまた別の機会
に触れたいと思う。




二節 壬申の乱の始まりと皇位継承問題

 壬申の乱についての記述で一番詳細に書かれているのは日本書紀である。しか
し、鎌倉時代に出来た日本書紀の注釈書・『釈日本紀』を読むと、壬申の乱時の記
述の多くは大海人皇子に付き従った舎人たちの手記を材料としていることがわか
る。「安斗宿禰智徳の日記に云う」や、「調連淡海の日記に云う」など(注8)の
記載が見え、ようするに日本書紀における壬申の乱時の記載の多くは大海人皇子
に同行していた舎人たちによって書き残されたものを基にしたものであり、大海
人皇子中心に書かれたものだということができる。また、壬申の乱の記載の中に
明らかに尚書・論語・漢書・後漢書などの中国の書物を引用し、文を装飾してい
るところがある。亀田隆之氏は著書の中で「乱の経過を動的に描くため、或いは
また大海人皇子の行動を正当化するため、実際ありもしなかったことを記してい
るのではないか、という疑問」があると述べられている(注9)。日本書紀は壬申
の乱の四十余年を経て書かれたものであり、その当時を知るものも少なく、また
天武天皇系の天皇によって撰されたもので、そして天武と新田部皇女との間の
子・舎人親王によって撰されたものであり、天武天皇に良いように書かれている
とも考えられる。亀田氏の言うように、乱の経過を動的に書くため、また或いは
大海人皇子の行動を正当化するため中国の有名著書を使い実際ありもしなかった
ことを本当にあった事の様に記しているのではないかという疑問を拭い去ること
は到底出来ようがない。
 大海人皇子の立太子後、天智天皇と大海人の間に不和が生じ始める。大海人が
早く娶った額田王をめぐる争いなども原因とされているが、天智と大海人の間に
政治上の意見・意識の違いが生じ始めたのである。当時の皇太子は、かつての天
智がそうであったように、次の天皇になるべき皇嗣であると同時に、統治権の代
行者(執政者)の意味も兼ね合わせていたのだが、天智は即位後も実権を握り続
けていた。このことは、大海人に不満を抱かせるのに十分な動機となったと考え
られ、また時が経つと共にその不満は募っていったに違いない。
 また、もう一つ理由として挙げられることは、天智天皇の長子・大友皇子の存
在である。天智は、大海人を皇位継承者として認める一方で、我が子である大友
に将来を託したいと考えたのである。天智の即位前後から二人の感情的対立はあ
ったと思われるが、表面上にそれが現れたのは六六八年である。『大織冠伝』鎌足
伝に

  七年正月即天皇位。是爲天命開天皇朝廷无事。遊覧是好。帝召群臣置酒濱樓。
  酒酣極歡。於是太皇弟作皇太弟下同以長槍刺貫板。帝驚大怒以将執害。大臣固
  諫。帝即止之。太皇弟初忌大臣所遇之高。自茲以後殊親重之後有値壬申亂字從
  芳野向東士。歎曰。若使大臣生存。吾豈至於此困哉。

とある。大津京の琵琶湖岸で酒宴を催し、その時大海人が長槍を使って板を刺し
貫き、天智は怒って大海人を殺そうとしたがこれを鎌足が諌めたという記事であ
る。中臣(藤原)鎌足は大化改新以来天智の片腕となり政治に携わっており、こ
の人なしでは天智の政務を語ることは出来ない。大海人は、鎌足を良く思ってい
なかったようであるがこの事件の後からは深く信頼するようになり、鎌足は天智
と大海人の調停者となっていたようだ。

 しかし天智天皇八年(六六九)、両者の緩衡をなしていた鎌足が亡くなると、天
智・大海人の対立は急速に破局へと向かったのである。
ここまで見てくると、ある疑問が生じる。それは、大友擁立を思う天智が何故、
大海人を立太弟させたのかである。これは、近江に遷都した理由とも関わってく
る。
 遷都の理由であるが、それは出自の低い、身分の低い母を持つ大友を自己の後
継者とする為、政権を構成する豪族の伝統的な勢力地である畿内を離れ、近江に
遷都することによって豪族の差を無くすとともに昔から続く習わしに捉われるこ
となく政治に励もうとしたとの意図がうかがえる。遷都は朝廷を形成する伝統的
豪族たちに当然のごとく不満と批判を招く結果となった。こうして、すぐに大友
を後継者とする訳にはいかなくなってしまったのである。こうした中で、朝廷内
での豪族同士の対立を防ぐ為、また天智に対する不満を多少なりとも防ぐ為、名
声が高く出自においても申し分のない大海人を立太子させ、豪族たちの不満を取
り払おうとしたのではないだろうか。これが、大海人立太子の理由の一つとして
考えられる。よって、大海人立太弟は必ずしも天智の望むところではなかったと
考えられる。
 大海人が出家して吉野に入ったのは六七一年天智天皇十年十月で、日本書紀に
次のような記述がある。

  臣請願奉‐爲天皇出家脩道。天皇許焉。東宮起而再拜。便向於内裏佛殿之南。
  踞‐坐胡床剃‐除鬚髪。爲沙門。於是天皇遣次田生磐送袈裟。○壬午。東宮
  見天皇請之吉野脩‐行佛道。天皇許焉。東宮即於吉野。
 
大海人皇子は、天智の許しが出るとすぐに吉野に入った。この時妻・鵜野讃良
皇女、長子・草壁皇子、そして忍壁皇子を伴っていた。大海人皇子が吉野に入っ
た時の有名な一節に
  虎著翼放之。
というのがある。「虎に翼をつけて放てけり」。壬申の乱を代表する一節で、大海
人を出家という名目で吉野に逃がしてしまったことをいっているのである。大海
人の功績・実力を多分に認め、このまま引き下がってはいないだろう、いや、何
か事を起こすのではないかという事を予測しての言葉と思われる。北山茂夫氏は
この一節を「この歴史的場面の隠された核心をついたもの」といっている。これ
から幕を開けようとしている壬申の乱の、もっとも重要な部分である。

 天智の亡くなった半年後の天武天皇元年(六七二)、吉野で忍従の日々を送って
いた大海人は天智没後の政情不安の最中の六月二十四日、わずかな従者と共に急
遽吉野を脱出し、東国を目指した。壬申の乱は、こうして勃発したのである。





第二章湯沐邑と美濃国

第一節 壬申の乱に見る湯沐邑

湯沐邑とは、中国から伝わったものと考えられ、それは天子諸侯の料地を指し
ていた。横田健一氏は「諸侯が天子に朝するにあたり、斎戒するための湯沐料と
いうのが原義だが、後には妃嬪の化粧料の意に解されるようになった」と言って
いる。
(1)	六月壬午条。詔村国連男依、和珥部臣君手、身毛君広曰、
      今聞、近江朝庭之臣等爲朕謀害、是以汝等三人急住美濃
      国、告安八磨郡湯沐令多臣品治、宣二示機要、而先発当
      郡兵、仍経国司等差発諸軍、急塞不破道、朕今発道。
(2)	六月甲申条。是日。発途入東国。即日。到菟田吾城。大
      伴連馬來田。黄書造大伴。從吉野宮追至。於此時。屯田
      司舎人土師連馬手供從駕者食。過甘羅村。有者廿餘人。
      大伴朴本連大国爲者之首。則悉喚令從駕。亦徴美濃王。
      乃參赴而從矣。運湯沐之米伊勢国駄五十匹遇菟田郡家頭。
      仍皆棄米而令乗歩者。到大野以日落也。
(3)	六月甲申条。越大山至伊勢鈴鹿。爰国司守三宅連石床。 
      介三輪君子首。及湯沐令田中臣足麻呂。高田首新家等參
      遇于鈴鹿郡。則且発五百軍一塞鈴鹿山道。

 日本書紀の天武天皇元年、いわゆる「壬申紀」といわれるところの記事に、以
上三つの湯沐の記事を見ることが出来る。天武元年六月条というと壬申の乱の当
初の記事であり、このことから湯沐制度は大宝律令以前のものであり、また飛鳥
御浄原令以前の制度であることが分かる。日本では『令集解』に中宮湯沐二千戸、
『延喜式』春宮坊式等に東宮湯沐二千戸という記事を見ることが出来る。しかし
『令集解』に東宮の湯沐邑に関する記事は見ることが出来ず、東宮の湯沐邑が定
められたのは『養老令』制定以後と考えられている。大化以前、后妃と皇子に与
えられた私部・壬生部に代わって皇后と皇太子に経済的基盤として湯沐の名で与
えられたものと言われている。
 湯沐邑は、封戸の一種であり、事実上差別はないものだといわれている(注一
〇)。しかし、実際にそうであったのだろうか。
 律令制の中での封戸は、封主の直接支配を受けず、国司が租の半と庸調とを徴
収して封主に送るという封主の間接的支配に過ぎず、所有でもなく、租税の用益
権を与えられ、そこには封主と封戸である土地の現地住民との間にはなんの支配
関係はなかったといえる。
 しかし(1)の記事では、舎人である三人に命じ湯沐邑の管理を大海人から任
されていた湯沐令・多臣品治に、機要を宣示して軍兵を発させている。そして、
国司らに差発をふれるよういっている。ここで注目するのは、国司に命じている
のではなく、直接湯沐令である多臣品治に命じているところである。このことか
ら、大海人の湯沐邑では湯沐令に対しての大海人の命令権、発言権が非常に強か
ったことが分かる。不破の関を塞ぐことにより以後の戦局を有利に進めることが
出来たといってもよく、そこから考えるとその重要な役目を多臣品治に命じたと
いうことは、それだけ多臣品治への信頼が強かったのだと思われる。あげた二つ
の点から考えると、湯沐邑では直接的支配だったのではないか、と考えることが
出来る。では、封戸が間接支配なのに対し、壬申の乱で見る限り湯沐邑が私的、
直接的支配であるのことは、封戸と湯沐邑が同じものと考えるのは難しいと思わ
れる。
 また、湯沐邑が東宮・皇后に与えられるものであったなら、この時すでに出家
と称し吉野へ逃れていた大海人が未だ湯沐邑での発言力が強かったところは不思
議である。東宮・皇后にだけ与えられるものなのであれば何故、壬申の乱時点で
大海人が湯沐邑を所有していられたのか、使用できたのか。そこには、前章で挙
げたように、大海人にそれだけの力量があり、湯沐邑の人々との信頼関係がより
深かったためだと考えられる。




第二節 美濃國安八磨郡と多臣品治

 六七二年六月二二日、大海人皇子は村国連男依、和珥部臣君手、身毛君広の三
名に詔して、「美濃国安八磨郡で挙兵し、速やかに不破の関を塞げ」と命令した。
古代政治史を考える上で重要な鍵と言える壬申の乱はこうして始まったのである。
 美濃とは現在の岐阜県南部の地で、東は信濃国(長野県)、北は飛騨(岐阜県)
越前(福井県)の両国、西は近江国(滋賀県)、南は伊勢(三重県)・尾張(愛知
県)・三河(愛知県)の三国に接していた。
 ここで出てくる「安八磨郡」は濃尾平野の北西部に位置し、大垣市・安八郡墨
俣町などを中心とした地域で、この頃は北方の池田郡の地も含まれていたようで
ある。大宝二年の戸籍には「味蜂間郡」、『延喜式』『和名抄』には「安八郡」とあ
る。
 この安八磨郡の湯沐邑の令であった多臣品治は多臣こも敷を父とし、また『古
事記』の撰者である太安万侶の父といわれている。
 多臣 敷は『日本書紀』天智天皇即位前紀に
  九月、皇太子御長津宮、以織冠授於百済王子豊璋。復以多臣こも敷之妹妻之
  焉。

という記事があり、百済の王子・豊璋の妻にこも敷の妹がなったとある。しかし
以降これに関する記事はなく、その後どうなったのかは定かではない。
二四日、吉野で決起した大海人皇子は、吉野を出発する時にわずか二〇数名だ
った。大津では大海人皇子が吉野に脱出したとの情報が宮殿にもたらされ、作戦
会議が行われたが、大友皇子は大海人皇子即時追撃の提案を却下し、実際に使者
を東国に派遣したが、その時二六日、使者は大海人側の不破の封鎖網に捕まって
いる。(注11)
 二七日前後、伊賀越えのあたり、吉野を出発した大海人一行は二〇数名しかい
なかったが、上野市南部の中山で在地豪族などが参軍し、数百名に増えていた。
 二七日、大海人皇子は息子高市皇子を不破に向かって発進させ、不破につくと
尾張の兵士2万人が合流した(注12)。不破郡関ヶ原町野上に行宮をたて、軍事
政権の本拠地としたのである。
 古代東山道が近江から美濃国に入ったところに不破の関があった。不破の名が
史上初めて現れるのはこの壬申の乱の時のことで、吉野で挙兵を決意した大海人
皇子方の村国連男依らは美濃に向かい三〇〇〇人の兵を発し、不破道を塞ぐこと
に成功し、以後の戦局を有利に進めることが出来たという。ここでは不破の関の
名はなく、不破道となっている。持統紀一〇年八月条に、壬申の乱時に美濃国に
いた多臣品治の功について、関を守ったとみえるのが不破関の初見である。
 東夷といわれる東方からの敵の侵入を防ぐ為の関と考えられていたが、岐阜県
教育委員会などの発掘調査の結果、関は藤古川の東側に設けられていたことが分
かり、むしろ、中央畿内で反乱が起きた場合、反乱軍が東国に逃走して兵を動員
するのを防ぐことが目的であったと考えられる。
 壬申の乱時、大海人皇子が、「美濃国安八磨郡で挙兵し、速やかに不破の関を塞
げ」と命令した村国連男依、和珥部臣君手、身毛君広の三名はそれぞれ、美濃国
の出身者である。村国連男依は美濃国各務(各牟)郡村国郷、和珥部臣君手は美
濃国池田郡額田郷、身毛君広は美濃国武藝郡有知郷の、それぞれの土地に根のは
った豪族出身者であった。地元に残る伝承では、大海人皇子に地元の民が山桃を
献上したところ、大いに喜んで全ての山桃を買い上げ、兵士に配ったと伝えられ
ている(注13)。
 柿本人麻呂が高市皇子を偲んで作った挽歌に「天の下 治めたまふと 食す国
を 定めたまふと 鶏が鳴く 吾妻の国の 御軍士を召したまひて」(注一四)と
あるように、壬申の乱時では畿内周辺だけでなく、東国の兵士も動員された。『日
本書紀』天武元年(六七二)六月丙戌日条によれば大海人皇子は「舎人」を派遣
して「東海軍」「東山軍」を動員させている。この「舎人」が、美濃国出身者であ
ったことは確かである。壬申の乱時、美濃国出身者は重要な役割を多く担ってい
た。
 
 天武天皇五年六月
  物部雄君連忽発病而卒。天皇聞之大驚。其壬申年、従車駕入東国、以有大功、
  降恩贈内大紫位。因賜氏上一。
 持統天皇七年
  壬寅、以直広参、贈蚊屋忌寸木間、并賜賻物。以褒壬申年之役功。
  持統天皇十年五月
 己酉、以直広肆授尾張宿禰大隅、并賜水田四十町。
同年八月
 八月庚午朔甲午、以直広壱壱授多臣品治、并賜物。褒美元従之功与堅守関事。

 天武天皇五年六月記事にある「物部雄君連」は、「朴井連雄君」「榎井連小君」
とも日本書紀に出てくる人物である。「朴井連雄君」の名で『日本書紀』天武天皇
元年五月に

  是月、朴井連雄君奏天皇曰、臣以有私事、独至美濃。時朝庭宣美濃・尾張両
  国司曰、為造山陵、豫差定人夫。則人別令執兵。臣以為、非為山陵、必有事
  矣。若不早避、当有危歟。

と、私用で美濃に行った際、美濃・尾張での不振な動きを大海人に告げたとある。
この翌月に不破道を塞ぐため詔がだされているので、この人物は大海人に重要な
知らせをもたらした人物であると思われる。
 持統天皇十年八月の記述は前記にあげた不破の関の初見の記事でもある。多臣
品治はこの時、当初から大海人(天武)に付き従った功労と堅く関を守った事績
と褒賞された。
 何例かあげたように、壬申の乱の功臣は死後、多く者が冠位を追贈されている。
また七一〇年代、壬申の乱時に活躍した人々は皆鬼籍に入った。功労者の功績
に対し、その子孫にも功封や功田が相続された。その中で、とりわけ活躍が目立
ったのは美濃国の人たちであり、その中でも大海人と関係の深い湯沐邑の令、多
臣品治であろう。

 初めに伊賀越えについて少し述べたが、歴史上伊賀越えをして天下を取ったの
は大海人、徳川家康の二名。家康は、一五八二年、織田信長が本能寺の変で憤死
した時、招かれて堺見物をしていた。決死の覚悟で伊賀越えをして、伊勢の白子
浜から無事本拠地三河へ戻ったのである。伊賀越えをして天下を取れなかったの
は穴山梅雪(元武田信玄の武将)で、梅雪も信長の客だったが、伊賀越えで一揆
勢にかかり落命したのだった。
 
 壬申の乱から、古代美濃国の動向が少なからず見て取ることができる。






終わりに
 
 壬申の乱について書かれた史料として一番代表的な『日本書紀』であるが、そ
の信憑性はどこにあるのか定かではない。そのため多くの読み方、考え方、そし
て憶測が出てくる。個人的にはそこに日本古代史を学ぶ、研究する楽しさという
のはおかしいかもしれないが、感じる。
 それは様々な史料を読み解き、また考古学的調査から多くの真実を見つけてい
くという作業の中で、新たに疑問や考えが生まれることによって、より一層私に
学ぶ意欲をくれる。
 今回、壬申の乱について当事者である大海人皇子・大友皇子について少し見て
みたが、古代天皇制においていかにその出自が問題になるのだということを知る
ことが出来た。そもそも壬申の乱の記述が『日本書紀』の中でどれほどの信憑性
を持っているのかと考えると、乱についてまだまだ見ていかなければならない課
題が多くある。皇位継承問題についても、壬申の乱は兄弟相続と父子相続(直系
相承)の狭間で起きた争いである。実際直系相承が用いられるのは持統天皇の時
であるが、天智が兄弟相続に疑問を持ち、大友擁立を図ったのだとするとこの乱
が意味するところは大きいと思う。また、文字資料を読んでいくと、当時の時勢
というものが大きく反映されていることが分かり、その中から真実を読み解いて
いくことの難しさを知った。
 未だ謎の多く残る湯沐邑については軽く触れた程度だが、今後卒業してからも個
人で調べていこうと言う意欲を持った。
 歴史とは物事を読み解くと同時にその背後にある人の心情を解く、奥深いもの
であると思う。壬申の乱においても多くの人々の感情・行動が絡み合い、古代最
大の内乱にまで発展したのであろう。






《注》
(一)天智天皇の年齢は舒明十三年(六四一に十六歳であったことが『日本書紀』
   に見えるので、六二六年の生まれと推定できるが、天武天皇については確
   実な記録がない。『本朝皇胤紹運録』には天武天皇の没年を六五歳とするが、
   それでは兄の天智より四歳年長となってしまう。そこで六五歳というのは
   五六の写し誤りと考えられ、天智より五歳年少で舒明三年(六三一)の生
   まれとする説が有力である。
(二)『懐風藻』葛野伝によれば、享年三7歳と伝えているので六六九年の誕生で
   あることがわかる。そのことから大友皇子と十市皇女の結婚は遅くとも六
   六九年、近江大津宮における天智天皇即位のころと推測できる。
(三)『懐風藻』大友皇子伝によれば、大友皇女は壬申の乱で敗死した時二十五歳
   であったとされるので、大化四年(六四八)の誕生である。
(四)『日本書紀』天智天皇七年二月戌寅条
(五)亀田隆之『壬申の乱』至文堂 一九六六
(六)高市皇子(たけちのおうじ)六五四―六九六。天武天皇の皇子。知られる
   十人の皇子のうちでは最も早い生まれ。『日本書紀』には高市皇子命・後皇
   子尊、『万葉集』には高市皇子尊と記されている。母は胸形君徳善の女、尼
   子娘。天武朝で草壁・大津両皇子に次ぐ第三位の地位にあったが、最年長
   の皇子として壬申の乱時の活躍と相まって内外の信望が高かったと推測さ
   れる。
(七)『懐風藻』の編者を淡海三船とする説があり、この三船は天智天皇の玄孫・
   大友皇子の曾孫である。この説が本当ならば大友皇子伝に潤色が加えられ
   ている可能性は一層大きい。
(八)『釈日本紀』新訂増補国史大系巻八
(九)(五)に同じ
(一〇)『白鳳天平の世界』横田健一 一九七三年
(一一)『日本書紀』天武天皇元年六月条丙戌
(一二)『日本書紀』天武天皇元年六月条丁亥
(一三)『新版古代の日本 中部』角川書店 一九九三年
(一四)『万葉集』巻2−199



《参考文献》
『日本書紀後篇』新訂増補国史大系
『日本書紀3』新編日本古典文学全集 小学館 一九九八年
『禄令集解』新訂増補国史大系巻二四
『懐風藻』日本古典文学大系69 岩波書店 一九六四年
『大職冠伝』群書類従 第五輯 巻第六十四 家伝上 鎌足伝 酣燈社 
        群書類従刊行会 一九五四年

亀田隆之『壬申の乱』至文堂 一九六六年
川崎庸之『天武天皇』岩波書店 一九五二年
北山茂夫『天武朝』中央公論社 一九七八年
      『壬申の内乱』岩波書店 一九七八
田中卓『壬申の乱とその前後』国書刊行会 一九八五年
直木孝次郎『持統天皇』吉川弘文館 一九六〇年
『壬申の乱(増補版)』塙書房 一九九二年

星野良作『壬申の乱研究の展開』吉川弘文館 一九九七年
横田健一『白鳳天平の世界』創元社 一九七三年
原秀三郎,小林達雄『新版古代の日本 中部』 角川書店 一九九三年